昭和18年、宇都宮みんみんの創業者鹿妻三子と子供たち(左)。当時の鹿妻家は、北京のワンフーチン地区に住んでいた。このときに現地の人からならった家庭料理の一つが、餃子だった。
宇都宮みんみんの前身だった「ハウザー」(下)。
写真は昭和30年頃のもの。『天津餃子』の貼紙が見える。
中国の家庭料理である餃子は、当時の中華料理店では出すところも少なく、あまり一般的ではなかったが、大陸からの引揚者を中心に知れ渡るようになっていった。
昭和30年代中頃の鉄鍋(下)。この鍋で5~6人前が焼けた。餃子を焼く熱を逃がさないよう、かなり厚めの鉄板を使っている。
鍋同様に重い蓋を一日に何度も開けて調理していたため、肩を痛めることも多かった。
宇都宮に存在する、最も古い餃子鍋と思われる。
開業時の帳簿(上)。ラーメンが一杯30円のこの時代、餃子が一人前50円もした。
当時は餃子がまだ珍しかった頃。餃子の一般化とともに販売数が増えていったことが、この帳簿からわかる。
上は宇都宮みんみん開業当時のマッチ箱(左)。デザインしたのは、三子の次男。
当時の店名は「珉珉」と書かれていた。『珉』という文字には、庶民の宝物といった意味がある。
同じく下も次男の手によるマッチ箱(左)。こちらは開店後数年たってからのもの。素材には和紙が使われており、その柔らかな風合いが好評だった。
当時は、この紙一枚一枚をマッチ箱に貼り付けていた。